創設者からのメッセージ

はじめして!このサイトの創設者である、はなです。
このサイトの目的は、多くの脳卒中当事者が繋がり、たくさんの回復ストーリーや対処法を知ることで、脳卒中後の新しい人生を共に築いていくことです。
私がこのような活動を行おうと思ったきっかけは、自らの体験にあります。今から5年前に時を戻してみましょう。
2018年7月4日
高校卒業まで大阪で過ごした私は、祖父祖母の実家がある東京に親と一緒に引っ越し、大学に進学しない代わりに、都内のブリティッシュパブで1年余り働いていました。
バイトは週5~6日入り、8~10時間のシフトを繰り返していました。夜中の1時過ぎに帰宅し、次の日は朝10時ぐらいに起き、14時から始まるバイトに行く。
今考えると、「よくそんなに働いてたな」と思いますが、当時の私には夢がありました。それは ”イギリスの大学に進学する”こと。
1週間のほとんどをバイトに費やし、そこで得たお金は留学の費用として貯め、”0”だった口座は、留学に行く直前には”1,000,000”に変わっていました。
「ロンドンに行ったら、音楽ライブをたくさん見に行きたいな」「学校で友達をたくさん作ろう」「イケメンの彼氏と出会えたらいいなぁ」。
2か月後に迫るイギリス生活に思いを馳せながら、新たな人生の1ページにワクワクと胸を膨らましていました。
留学に行く2ヶ月前の2018年7月4日。私はいつも通りに朝10時ぐらいに起き、いつものようにバイトに行く支度をしていました。
その日は気温が30度ほどあった夏日で、夏バテでもなっていたのか、普段ならご飯大盛りとおかずを食べるとこだが、その日だけは食欲がなく母親が作ってくれたサラダを少しだけ食べたぐらいでした。
「今日暑いしなぁ、食欲がないのは熱中症のせいかな?」と思いながら、当時留学前に行く予定だった夏フェスに向けて、筋トレをはじめることにしました。
まずは通常のプランクを30秒。よし、次は右側のプランクだ。横になった姿勢で右腕に体重を加えたその時、「パーン」と、今まで聞いたことがない、私の頭の中で小さな花火が打ち上げられたような、そんな破裂音が聞こえました。
「今のは何だ?」と思い、一旦体勢を戻そうとした瞬間、私の左上半身は重力に負けたように、床に打ちつけられました。
その日は気温がとても高く、朝も食欲がなかったことを思い出した私は、「やっぱりこれは熱中症の症状なのだろう」と思い、和室にいた私は体勢を変えてリビングに移動しようとしました。移動をしていると、猛烈な吐き気に襲われ、次の瞬間にはリビングの床に吐いていました。
「これは熱中症じゃない。救急車を呼ぶ必要がある。」
私は動かない左半身を右側で支えて必死に床を這い数メートル先の電話機にたどり着くと、救急車を呼ぶために「1、1、9」と番号を押しました。
「ツーー、ツーー、ツーー」。
電話がかからない。番号を押したはずなのに、受話器から返ってくる音は、まるで”この世の終わり”を表しているようでした。
「いやだ。死にたくない」。私は叫んで助けを求め、隣人が気付いて救急車を呼んでくれることを願いました。しかし隣の家の叫び声などそう簡単には聞こえません。家には私一人だけ、母親が仕事から帰ってくるのは5時間後の夕方....。
このような状況に対して、どのように対処するかは人それぞれ違うでしょう。ある人はそれでも諦めずに電話をかけようとしたり、ある人は叫び続けたり、歩けるのであれば自分で病院に行ったり。
私の場合、何を思ったのだでしょう、「とりあえず寝たら治るでしょ♪」という、”脳卒中は時間が命”というルールに全力で歯向かうような対処方法でした。しかしその時は本気で「寝たら良くなる」と思っていたので、なんの疑いもなく目を閉じました。
20分ぐらいで起きようと思った私が次に目を開けたのは、母親が仕事から帰ってきた5時間後。母親が玄関の扉を開けた音で意識が戻った私は、「救急車を呼んでほしい」と頼み、そのまま某大学病院に運ばれました。
退院後の理想と現実のギャップ
私の出血の原因は、脳動静脈奇形と呼ばれる先天性の病気でした。もともと破裂しやすい状態だったため、いつ出血が起きてもおかしくない状況でした。
搬送された最初の1週間は激しい頭痛で眠れない日が続きましたが、その後は頭痛が和らぐとともに左半身の麻痺が徐々に回復していき、歩く・食べる・トイレに行くを含めた身の回りのことができるくらいに回復していました。
搬送された1か月後に無事ガンマナイフ*という放射線治療も終わらせ、待ちに待った退院の日。これでやっと家に帰れるのだ。
私は何を期待していただろう?また友達と遊びに行くこと。好きなアーティストのライブに行くこと。そして、できなかった留学に行くこと。
あれは退院してから数日後の2018年8月14日。その日の日記に私はこう記していました。
=================日記の内容=================
ガンマナイフが終わってもまだ完全に治った訳じゃない。まだ腕と目のマヒはあるし、頭に悪いやつがいるのは変わらない。何かをしようとしても、それが頭によぎるから、完全に治るまではその不安と闘っていかないとと思うと、怖いし、悔しい。普通の人とは違う状態だという事がまだ理解できない。
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当時の私は、退院したら友達と遊びに行ったり、ご飯を作ったりなど、元の生活に戻ることができるという理想と、ご飯を作るにしろ近所に買い物に行くにしろ、何をするにもすぐ疲れてしまい、留学なんて夢のまた夢だと思い知らされた現実とのギャップに苦しんでいました。
すでにこのような言葉はあるかもしれませんが、私はこのような現象を”病気の二次的苦痛”だと思っています。脳卒中などの病気が原因で起きる身体的・精神的な障がいを”一次的苦痛”だとしたら、退院したときの「理想と現実とのギャップ」による苦しみは”二次的苦痛”になります。
個人的な印象だと、脳卒中の後遺症を持つ人は、同じような経験をする人が多いと思います。私が最近ボランテイアとして通っている作業所の1人の人がくれた、彼の脳卒中の経験を記した本があります。
この男性は50代のときに脳卒中を経験し、以来左半身に重度の麻痺をもっているのですが、その本には「本当の地獄は退院後にあった」というタイトルで、”障がい者”という自分を受け入れることに時間がかかったと書いてあったのが印象的でした。症状が重い・軽いに関わらず、誰にでも二次的苦痛は起きるのだと。
病院という狭い世界で生きていた私にとって、「現実世界に戻る」ということが何なのかを理解していませんでした。たかが20歳が思い描いていた未来など、現実を目の前にすると虚像でしかなかったのです。
「なぜ他の人じゃなくて自分なんだ」「こんなの不公平じゃないか」
”普通の人とは違う状態”という現実を、私は受け入れることができませんでした。
*ガンマナイフ:ガンマナイフとは、放射線の一種であるガンマ線を使用することで、開頭をせずに脳腫瘍などの脳疾患への治療を行いことができる。これにより、従来の放射線治療では避けることができなかった後遺症や副作用のリスクが低くなり、より安全に治療が行えるのが特徴。
レジリエンスー現実を受け入れるー
レジリエンスとは英語で “Bounce back” と表現され、逆境的な状況から立ち直ることを指します。人によって何を逆境と捉えるかは異なりますが。私にとって逆境とは、理想と現実のギャップ、つまり二次的苦痛のことでした。しかしそのような苦痛から、私たちはどのようにして立ち直ることができるのでしょうか。
以前読んだマインドフルネス瞑想の本に、こう書いてありました。「二次的苦痛は一次的苦痛への抵抗や反応によって起きる苦痛である。その苦痛から自由になるには変えられないもの(一時的苦痛)を受け入れ、そうでないもの(二次的苦痛)を変えていくことだ」と。
苦痛から抜け出したいのであれば、その苦痛を受け入れないと、前に進むことはできない。理想と現実のギャップを埋めるには、自分が思い描いた理想を打ち砕く”現実”を、受け入れる必要があります。
あれは退院してから数週間ぐらいが経ったときでした。当時母親と2人で暮らしていた私は、母親が友人と夏フェスに行く予定があり家を空けるため、父親の家に数日間泊まることになりました。
その時の私は「自分が障がいをもっている」「他の人と違う」という現実に苦しんでいて、よく泣くことが多かったです。リビングで父親に「自分が障がいをもっていることが悔しい。他の人と違うということが理解できない」と伝えました。そこで父親が言ったことは今でも覚えています。
「でもな、はな。現実を受け入れないと前に進むことはできないよ。」
これを聞いたとき、私はハッとしました。本当に、その通りだと。私は変えられない現実を、どうにかして変えようとしていた。そんなことは無理なのに、病気になった前の状態に戻りたいと願っていたのです。
現実を受け入れるというのはとても難しいことです。なぜなら現実ではなく、自分自身を変えないといけないから。そこには小さいものもあれば、多大な努力が必要なものもある。めんどくさいし、そんなことは避けたいのが人間です。
幸運なことに、私はその言葉を聞いて現実を受け入れることができました。一旦現実を受け入れると、不思議と人は”変えられること”に注目するようになるのです。
私はそれ以降、家事や散歩などのリハビリに自主的に取り組むようになりました。左手で包丁を持ち、切るのが精一杯だった料理も、段々とスムーズにできるようになりました。
出来ることが少しずつ増えてくると、私のなかで段々と強くなる思いがありました。
念願のイギリス留学
「留学に行きたい」
脳卒中がなければ行けたはずのイギリス留学。本来イギリスには語学学校留学として行く予定でした。
しかし病院での入院生活を経験し、入院患者に対しての精神的なサポートが少ないと強く感じた私は、次第に「大学で心理学を勉強したい」と思い始めるようになりました。
語学留学ではなく、イギリスの大学で心理学を勉強したい。しかし日本とイギリスの教育システムは異なるため、留学生がイギリスの大学に直接入学することは難しい。そのためには大学準備コースと呼ばれる大学準備課程を修了する必要がありました。
退院してから数ヶ月後の2018年の冬。「来年の9月にはイギリスに留学したい」と、私は両親に胸の内を伝えました。当然ですが両親に反対され、ただでさえ高い学費はどうするんだと言われました。
奨学金をもらって留学するのが一番良いのだろうが、高校での成績は”可もなく不可もなく”という言葉が合っているぐらいなので、奨学金をとれる自信はない...。
しかし諦めが悪い私は、どうにかしてその翌年の9月にはイギリス留学に行きたいと思い、大学準備コースを提供している機関のリサーチや、IELTSの勉強に取り組みました。
留学費用については、幸い脳出血がおきる前に入っていた保険がおりたので、学費と生活費はその保険金で賄うことができました。
特に留学に反対していた父親(今考えると反対するのは当然だが)をなんとか説得し、私は2019年の9月、脳出血がおきてから1年余りでイギリスのUEAという大学が提供している大学準備コースに留学しました。
出血してから学校に通うのは初めてだったので、もちろん留学中は辛いこともありましたが、家族・友人・学校の先生・主治医の先生のサポートがあったおかげで、無事にコースを修了することができました。
現在はイギリスのLSEという大学が提供しているデータサイエンスの修士課程を、オンラインで受けています。「心理学はどこにいったんだよ!」という読者のツッコミは聞こえますが、辛いときでも諦めずに前に進み続けたおかけで、出血前からの夢であった”イギリスの大学に進学する”ことを実現させたのです。
新しい人生を歩む
最近読んだ本に”Option B” という名前の本があります。 “Option B”は英語で「次善の選択肢」という意味で、この本の著者が旅行先で最愛の夫を突然亡くした実体験をもとに、人はどのように逆境から立ち直ることができるのかが書かれています。
この本のなかで、特に印象に残っている言葉があります。著書の夫(デーブ)が亡くなってからの数週間後、夫が参加するはずだった父と子の催し会について、夫の代わりを誰にしてもらうかを著書は彼女の友人に相談していました。そこで彼女はつい「でもデーブにいてほしかった」と弱音を吐いてしまいます。するとその友人は、彼女にこう言いました。
「オプションAはもう無理なんだ。ならば、オプションBをとことん使い倒そうじゃないか」
私たちが何かを失ったとき最初にとる行動は、おそらく失ったものに悲嘆することでしょう。そして、どうすれば失ったものを取り戻せるのかを考えるのです。
しかしそのことを考えるたびに、もう二度と取り戻すことができないという現実を突きつけられます。
そして私たちは「なぜ自分が病気に?」「どうして他の人じゃないの?」と、ありもしない理由を見つけようとします。
病気もせず、障害がない完璧な人生がオプションAだとしたら、オプションBとは失ったものを取り戻すことではなく、新たな人生を築いてゆくことだと私は思います。
留学に行くために培った”諦めずに前に進み続ける力”も、仕事、人間関係、そして過去のトラウマを乗り越えるうえで、とても役に立っています。
みなさんがオプションBをとことん使い倒し、新たな人生を築いていくことで、新たな喜びを見つけてほしい。このサイトにはそんな意味も込められています。
みなさんが新たな人生を築くために必要な”レジリエンス”、逆境から立ち直る力を身につける手助けができたら、それは私にとってかけがえのない喜びになるでしょう。
同日2018年8月14日に書いた日記の最後に、私はこうも記しています。
================日記の内容==================
笑ってた人生の方がいいよ。てか入院してストレスフリーになってからか、「ありがとう」とか笑顔が増えた気がする。素直になった。それはいつまでも忘れないでね。焦らずゆっくり、君なら楽しい未来が待ってるさ!!
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私自身、脳卒中後の新たな人生をとことん楽しんでいる最中です。
そして今、新たな人生を踏み出そうとするあなたにも、そうあってほしい。
さあ、その一歩を踏み出そう。